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顔の見えない受刑者に感情移入できるか 映画『プリズン・サークル』砂絵アニメーションの力

この記事はpotariにも掲載しています。potariでは写真が掲載されています。

2020年1月、ドキュメンタリー映画『プリズン・サークル』の公開がはじまった。わたしはこの映画のクラウドファンディングの支援者であり、監督の知人でもある。つまりこの記事は、まったくの第三者による映画のレビューではなく、応援記事であることをおことわりしておく。

『プリズン・サークル』は、島根県の刑務所で唯一おこなわれている受刑者同士が対話する更生プログラムを描いたドキュメンタリー映画。犯罪者をどのように処遇すべきなのか、犯罪へいたる背景は何なのか、犯罪者は更生できるのか、見るものに多くのことが問いかけられる。同時に、自分の経験を振りかえり、ひいてはわたしたちの社会のあり方をも考えさせられる。

この記事では、映画の要素のひとつであるアニメーションを紹介したい。以下の内容は、公開初週に開催された、坂上香(監督)と若見ありさ(アニメーション監督)のアフタートークの内容をもとにしている。

『プリズン・サークル』は、ドキュメンタリーでありながら、はしばしにアニメーションが挿入されている。坂上は、アニメーションをとりいれた経緯を語った。法務省の判断で、登場する受刑者の顔が一切出せず、ぼかし処理せざるをえなかった(ぼかし処理だけで数か月かかったという)。もっとも伝えたい人間の表情を消されてしまい、ドキュメンタリーとして成立するのか危ぶまれた。その問題をのりこえるため、彼らが語る子ども時代のエピソードを、なんとかビジュアルで見せる方法を考えていたとのこと。そんななか、アニメーション作家の若見と出会って意気投合し、はじめて共同制作することになった。

坂上が編集したシーンにあわせて、若見が砂絵によるアニメーションを制作した。砂の絵は青みがかった色調とセピア調とがある。柔らかくやさしい絵のトーンと、暴力やいじめ、虐待、ネグレクトなどの体験を語る声にはギャップが大きく、最初はたじろいでしまう。

アニメーションの制作期間は、およそ2か月強という短期集中である。毎日9時間かけ、ガラス板にのせた砂粒をすこしずつ動かし1コマずつ撮影していく。もし制作中に、地震が起きたりして予期せず砂が動いてしまったら、シーンの最初からつくり直しだ。若見は、制作にあたって、虐待に関する書籍を読みまくり、受刑者が過ごしたであろう間取りのアパートの部屋を取材したという。柔らかなタッチからは、即興的につくっていたように感じられるが、じつは綿密なリサーチを経て作られていたのだ。

結果として、この映画のアニメーションはリアリティを補う添え物どころか、重要な要素になっている。映画の舞台は基本的に刑務所のなかだ。無機質な建造物を背景に、蛍光灯のあかり、プラスチック製の椅子など。どちらかといえば、のっぺりとした画がつづく。みな丸坊主の男性受刑者たちの顔や表情は隠され、彼らの感情をつかみきれない。そのなかではっとするのが、ときおり挿入される刑務所の各所と島根県浜田市の四季の風景。そして、アニメーションだ。

砂絵のアニメーションは、映像としての情報量がけっして豊富ではない。しかしその特性がかえって観客の想像をふくらませている。この映画のきびしく制限された映像に、アニメーションがイマジネーションの翼を与えているのだ。一粒の砂はだれかの涙のようだ。まだらに散らばる砂のかたまりは、恐怖に震える人の鳥肌のようでもある。あるときは、一粒一粒の砂が一人ひとりの人間に見えた。環にそってならぶ砂粒は、まるで受刑者たちがつくる人の輪、サークルのようだ。それに砂粒が動いているということは、それを動かすアニメーターがいるということでもある。砂絵を見ながら、アニメーターの存在や手触り、息づかいまで伝わってきた。

『プリズン・サークル』は上質なドキュメンタリーであり、すぐれたアニメーション作品でもある。あのアニメーションなくして、顔の見えない受刑者に感情移入できるだろうか。その答えは、ぜひ自分の目でたしかめてほしい。

最後に上映情報をお知らせ。九州では、KBCシネマ(福岡市)、シアターシエマ(佐賀市)、Denkikan(熊本市)で上映予定。劇場公開時でないとなかなか見ることができない映画になりそうなので、ぜひ劇場で。

『プリズン・サークル』公式サイト
https://prison-circle.com/

「詩的な計算」って何? SFPC集中ワークショップに参加して

この投稿は、potariにも掲載しています。

「SFPC Summer 2019 in Yamaguchi」に参加し、いろいろな衝撃を受けたことをまとめておきたく、アート情報サイト「potari」に記事を書きました。幅ひろい人に読んでもらえるように、テクノロジーや人物などの固有名詞にはふれていません。1年ぶりの記事が、またYCAMの話題でした。


2019年9月4日から11日まで、山口情報芸術センター[YCAM]で集中ワークショップ「SFPC Summer 2019 in Yamaguchi」が開催されました。SFPCとは、ニューヨークでアーティストたちが設立した小さな学校の名前です。この学校では10週間のカリキュラムを提供していて、コンピュータを用いた表現方法を学ぶことができます。このユニークな教育プログラムはひろく知られ、日本をふくむ各国から受講生が集まっています。そのSFPCが米国外ではじめて開催すると知って参加を申し込んだところ。幸運にもこの集中ワークショップに参加することができました。

SFPCの正式名称は「School for Poetic Computation」。「ポエティック・コンピュテーションのための学校」という奇妙な名前です。ポエティック・コンピュテーションを日本語にすれば「詩的な計算」と言えばいいでしょうか。いったい何なのかとても気になります。ところがワークショップに参加しても答えはありませんでした。この学校ではポエティック・コンピュテーションが何かを定義しないというのです。つまり、このキーワードが気になったら、一人ひとりが探究すればよいのでした。

ただ、ワークショップを通じて「詩的な計算」がしめしている方向性は見えてきました。詩的というのは、商業的で実務的な活動に対するアンチテーゼだということです。詩をかくことは、効率化や収益を求める経済活動とはほど遠いきわめて個人的な創造活動です。コンピュータを用いた表現といえば、ゲームや広告、デザインといった、いわゆる「クリエイティブ」と呼ばれる業界が思い浮かびます。しかし本来のクリエイティブとはもっと自由な行為で、経済的業界の枠内におさまるものではないはずです。今回のワークショップのテーマは、「ギフトとしてのテクノロジー」を考えることでした。コンピュータを用いた表現でも、他人を思いやったり絆を深めるようなものをつくれるはずという信念がこめられています。

ワークショップに参加した生徒20人は、できるだけ多様なバックグラウンドの人が集まるように選考されています。年代や職業、性別はもちろん、出身国もさまざま。日本、中国、韓国、タイ、オーストラリア、カタール、スイスなど、幅広い地域から集まりました。最初のオリエンテーションでは、わたしたち生徒はそれぞれ違うところからやってきた「文化大使」であり、アーティストであると説明されます。お互いの違いを尊重し、ともに学ぶコミュニティの成員としてふるまうことの大切さをしっかり意識づけられる導入でした。

およそ1週間のプログラムには、SFPCとYCAMの講師陣による授業がみっしりつまっています。授業のテーマは、電子工作、プログラミング、ゲームデザイン、折り紙、バイオテクノロジー、即興ダンスなどさまざまです。どれもスキルを得るための授業ではなく、手や身体を動かしながら考えさせるものばかりでした。1日の終わりには、生徒と講師、スタッフみんなでご飯を一緒にたべます(ファミリーディナー)。週末は遠足にでかけて、多くの時間をともにしながら自然と心地よいコミュニティができあがります。最終日のファイナル・プレゼンテーションでは、生徒一人ひとりがワークショップをふりかえり、詩的なプロジェクトやパフォーマンスなどをお披露目し、来場者と意見を交わして終了しました。

このところプログラミングを学べる教室があちこちにできています。プログラミング教育が台頭している背景には、コンピュータを理解することが仕事を得る上で不可欠だとする実利的な思惑が見え隠れします。しかし「詩的な計算」を掲げるSFPCのように、コンピュータを用いた表現の可能性や社会との関係を根本から考えられるところはほとんどありません。

大学教育にかかわるわたしにとって、生徒になってSFPCに飛びこんだことはおおきな収穫でした。SFPCは既存の教育制度の枠外にある私塾的な学校だからできることかもしれませんが、安心できる自律的な学びの場が実現していました。SFPCの講師陣はつねに穏やかな笑顔で授業を進行し、生徒の活動を全面的にサポートしてくれます。もちろん生徒同士も助けあいます。ここでは、生徒が評価や競争への不安にさいなまれたり、心理的重圧にさらされることがありません。日ごろの教育現場に比べるとまぶしいくらいのユートピアでした。ここでは教育方法の根幹に、他者への信頼や寛大な精神が宿っていることがひしひしと伝わってきます。今回の参加経験が、これからの自分の活動に影響することは間違いありません。SFPCの教育方法や思想は、わたしだけでなく生徒それぞれのホームグラウンドを通じて着実にひろがっていくはずです。

今回のワークショップを企画したYCAMでは、評価がさだまらない実験的取り組みをたくさん実施しています。いつも面白いプログラムが開催されていますので、見に行くことをおすすめします。最後に、このすばらしい機会を実現し、全体を通じてきめ細かくサポートしていただいたYCAMスタッフのみなさんに深く感謝します。

撮影:竹久直樹
写真提供:山口情報芸術センター[YCAM]

映画『プリズン・サークル』(坂上香監督・2019・日本)

『プリズン・サークル』の試写をみた。ささやかながらクラウドファンディングで支援していたので、試写を見る機会に恵まれた。

はじめて日本の刑務所にカメラを入れた長編ドキュメンタリー。舞台は島根にある官民協働の新しいタイプの刑務所で、「TC」(回復共同体)という更生プログラムを日本で唯一導入している。TCでは受刑者同士が車座になって対話し、犯した罪やこれまでの記憶や感情に向きあう。最初TCで多くの受刑者に囲まれた支援員をみたとき、この空間にちょっとした恐怖を感じた。しかし、その気持ちはすぐに消えた。ここはふだんの刑務所と違い、番号ではなく名前で呼びあって発言できる、ひとりひとりが尊重される穏やな場だったからだ。

多くの人にとって刑務所は遠い存在だ。なのに、この映画はとても他人事ではすませられない。日本で生活している人で、いじめや暴力、負の感情などを、自分や身のまわりで経験したことのない人がどれほどいるだろうか。受刑者の生い立ちを聞いているうちに、ふたをしていた自分の子どものときの記憶がよみがえる。世の中には、なんらかの被害や負の感情をなんとか乗り越えてきた人がたくさんいるはずだ。だれもが人生の途中でいつ道を踏み外してもおかしくない。犯罪を犯していない人は、さいわいにして、いまのところ犯罪者にならなかったにすぎない。その違いはなぜうまれたのか。塀の向こうだから遠い存在だとおもっていた受刑者たちが、いつしか自分の身体と重なりはじめる。

映画の画面と音には緩急があった。刑務所内のきびしい制約のもとで撮影されているため、基本的に単調な画がつづくが、退屈ではない。受刑者の対話と沈黙に意識を集中させているからだ。受刑者の顔は法務省の方針でぼかされてはいるが、声は肉声のままで口元が映っていることもあり、あるていど表情がつたわってくる。

刑務所内の変化の乏しいシーンのところどころに、アニメーション監督・若見ありさによる印象的な砂絵のアニメーションが挿入される。その絵は、受刑者の「子どものときの記憶」の語りとともに登場人物の感情がゆたかに描かれ、スピーディに場面が転換していく。ただしその中身は、虐待、ネグレクト、暴力、いじめなどつらい被害の記憶ばかりだ。加害者の過去は、被害者だったのだ。どの受刑者にも共通しているのが、幼いときの被害経験から加害へといたる「暴力の連鎖」があることだ。

作中の音は、ほとんど受刑者と出所者の声だ。ドキュメンタリーとして、取材者や専門家の解説、受刑者の関係者、刑務所にいる刑務官や支援員などのインタビューが入っていてもおかしくないが、いっさいない。専門家の見解などなくとも、ひとりひとりの受刑者の声をきくだけで、日々の犯罪報道から、死刑を含む司法制度、厳罰化を求める世論など、いろいろなトピックが頭をよぎる。

取材許可に6年、撮影に2年。完成までにものすごい困難があったはずだ。監督は自分自身にも暴力の連鎖があったことをインタビューで告白している。自分の過去にしっかり向き合える強さをもっていて、あきらめずに取材しつづけた監督の粘り強さには脱帽する。

テレビの犯罪報道ばかり見ているよりも、まずは映画館でこの傑作を見なければいけないだろう。ひとりでも多くの人に見てほしいし、見た人の感想をききたい。(1361字)

2020年1月25日、渋谷シアター・イメージフォーラム他、全国順次公開。
https://prison-circle.com/

坂上香,2012,『ライファーズ 罪に向きあう』みすず書房

新井克弥,2016,『ディズニーランドの社会学: 脱ディズニー化するTDR』青弓社.

ディズニーランドには一度も行ったことがない。そう言うとたいてい驚かれる。もしかすると日本人のなかでは少数派かもしれない。なのでディズニーランドについては何も語れないのだが、この本は面白かった。まずはディズニーランドやディズニーにまつわる豆知識が得られた。重い論文ではなく、アカデミックなエッセンスがちりばめられた軽妙なエッセイのようだった。

著者は開園当初の東京ディズニーランドでアルバイト経験があり、ウォルト主義と現在のゲストの振る舞いの変化のあいだに愛憎の念を感じているようだ。著者によれば、現在のディズニーランドは、ウォルトが夢見ていたファミリーのための永遠に完成しないテーマパークではなくなったという。「Dオタ」なるコアなファンが、ときにテーマパークのルールを逸脱する過剰な楽しみ方をしていて、オリエンタルランドもその客層を狙って変化をつづけているという。わたしにはテーマパークの客層の変化がどれほど劇的なものなのか分からない。しかしこれを厳密な数字で示すのはむずかしく、印象で語っているのはやむをえないだろう。

東京ディズニーランドが変化した大きな原因は、日本特有の消費文化にあると本書は指摘する。もちろんその通りだが、インターネットによる来場者同士の情報流通が決定的な要因ではないだろうか。テーマパークとは、演出された巨大な舞台を楽しみ、ストーリーを読みとく場所だった。しかし今日では、多くのゲストが細かい知識と趣味の世界で細分化された情報を得ながら、それぞれの楽しみ方を突き進められる場所になっている。この現象を気持ち悪いと断罪もできるが、だれもが「通」として楽しめるようになったと肯定的にとらえることもできるだろう。

結局のところ、対象への愛情や知識の量を競い合うようなゲームになっているいわゆるオタクやサブカルチャーの領域と同じ世界になったのだろう。ディズニーランドは、もともとファミリー向けの無毒な(ディズニファイされた)テーマパークだけに、このようなオタク的ふるまいとは本来折り合いがつかない場所である。しかし日本では経営的に生き残るためにも、文化的に受け入れやすくするためにも、うまくローカライズして成功をつづけているということか。

ディズニーランドに少しだけ興味がでた。一方で一生行かなくていいともおもう。いや、本国アナハイムのディズニーにはちょっとだけ行ってみたくなった。

(1004文字・30min)

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荒俣宏『決戦下のユートピア』

きょうは、即位の礼とかで祝日だった。

荒俣宏『決戦下のユートピア』を読了。ゼミ生に紹介してもらった本。もとは同僚の先生のおすすめ本だったそうだ。

第二次世界大戦中の日本を大きな歴史としてではなく、庶民の体験の目線から描く。国家の自粛強制、ファッション、貯蓄奨励に有事のための保険、戦力確保のための教育、敵国を貶めるプロパガンダ、オカルトや新宗教信仰の流行など幅広いトピックがならぶ。発明奨励のところには、こうの史代『この世界の片隅に』に登場した「楠公飯」が登場していた(p.270)。

戦時下においても、人々がたくましく生きていることに心強さを感じる。一方で、これでは敗戦もやむをえないだろうと感じる珍妙なエピソードも多い。今となっては、大真面目なようで面白おかしい話がたくさん出てくる。戦争といえば悲惨な出来事で、庶民は苦しい生活を余儀なくされた。静かに振りかえるべき重たいトーンの時代なのに、つい笑ってしまう。

台風19号の被災はいまもつづく。皇室イベントを中継するNHKの画面は、災害復興情報が逆L字で囲まれている。この国はいま、おめでたいのか、かなしいのか。『決戦下のユートピア』が追いかけた戦時中の建前と本音、歴史と実情のあいだにあった「あべこべ」が、今の日本にも発見できそうである。これが非常事態への予兆でなければよいのだけれど。
(567字・22分)

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