常識外れの人びと

広島市現代美術館の特別展「HEAVEN 都築響一と巡る社会の窓から見たニッポン」に、会期最後の週末にすべりこみました。実は広島県に引っ越してきて、はじめての広島訪問です。広島に来たのは、なんと中学生の修学旅行以来です。

広島市現代美術館は、比治山下電停から坂道をのぼった比治山公園の中にありました。以前から、この美術館のシンボルマークが何をあらわしているのか分からなかったのですが、電停を降りた瞬間に理解できました! これには比治山のなかにある美術館へたどる坂道が描かれていたのですね。

会場は写真撮影可能でした。わたしは写真を撮らなかったので残念ながらここは写真なしですが、展示室の様子を知りたい方は、ぜひ検索してみてください。写真つきのブログがたくさんみつかりますよ。

都築響一は、「珍日本紀行」や「賃貸宇宙」、「ラブホテル」など、これまで正面きって取り上げられることのなかったスポットや「常識外れの人びと」を追いかけている写真家、編集者です。会場入口の壁一面に、次のメッセージが大きくはりだされていました。

僕はジャーナリストだ。アーティストじゃない。

ジャーナリストの仕事とは、最前線にいつづけることだ。そして戦争の最前線が大統領執務室ではなく泥にまみれた大地にあるように、アートの最前線は美術館や美術大学ではなく、天才とクズと、真実とハッタリがからみあうストリートにある。

ほんとうに新しいなにかに出会ったとき、人はすぐさまそれを美しいとか、優れているとか評価できはしない。最高なのか最低なのか判断できないけれど、こころの内側を逆撫でされたような、いても立ってもいられない気持ちにさせられる、なにか。評論家が司令部で戦況を読み解く人間だとしたら、ジャーナリストは泥まみれになりながら、そんな「わけがわからないけど気になってしょうがないもの」に突っ込んでいく一兵卒なのだろう。戦場で兵士が命を落とすように、そこでは勘違いしたジャーナリストが仕事生命を危険にさらす。でも解釈を許さない生のリアリティは、最前線にしかありえない。そして日本の最前線=ストリートはつねに発情しているのだし、発情する日本のストリートは「わけがわからないけど気になってしょうがないもの」だらけだ。

この展覧会の主役は彼ら、名もないストリートの作り手たちだ。文化的なメディアからはいっさい黙殺されつづけてきた、路傍の天才たちだ。自分たちはアートを作ってるなんて、まったく思ってない彼らのクリエイティヴィティの純度が、いまや美術館を飾るアーティストの「作品」よりもはるかに、僕らの眼とこころに突き刺さってくるのは、どういうことなのだろう。アートじゃないはずのものが、はるかにアーティスティックに見えてしまうのは、なぜなんだろう。

僕の写真、僕の本はそんな彼らを記録し、後の世に伝える道具に過ぎない。これからお目にかける写真がどう撮られたかではなく、なにが写っているかを見ていただけたら幸いである。

これは発情する最前線からの緊急報なのだから。

展覧会解説ブログ・サイトより
http://hiroshimaheaven.blogspot.com/

会場は、これまでの都築響一の仕事のシリーズが展示してあります。その意味では都築響一の著作からの抜粋でしかないともいえますが、美術館の空間をいかした展示には雑誌や本のページとは違った味わいがありました。また、本展覧会独自の内容もありました。独自展示のひとつは、広島の人はみんな知っている(らしい!?)地元の有名ホームレース「広島太郎」を取材したものです。そのほかにも、見世物小屋絵看板の実物展示や、カラオケスナックのブース、秘宝館を再現したものもありました。秘宝館だけは、18歳未満お断り。展示室にヌード写真があふれているのに、このゾーンだけ年齢制限を設けているのは、秘宝館への敬意のあらわれでしょうか。秘宝館のなかでは、女性の観客が写真を撮りまくっていたのが印象的でした。

それにしても広島市現代美術館は、特別展「一人快芸術」といい、芸術という枠をこえた企画で異彩を放っている美術館です。

ところで、「常識外れ」といえば、常識を疑う思考を持とうと謳っている本『20歳のときに知っておきたかったこと』が売れています。この本は、読者に常識を疑うことを奨励し米国流の起業家精神を鼓舞する点において、「シリコンバレー流」であり、人生訓をちりばめながら成功の秘訣を説く点においては、巷に溢れている自己啓発本の類と大差ありません。すなわち「シリコンバレー流の自己啓発本」ですから、生活している社会も文化も違う私たちはある程度の距離を持って批判的に読んだほうがいいでしょう。

この本が謳う「常識外れ」は、都築響一が見出した「常識外れ」とは全く異なります。本書の「常識外れ」は、あくまでもビジネス的な成功、つまり金儲けと社会的名声の獲得を目的としているからです。たとえば、こんなエピソードが得々と披露されています。著者は会議のため滞在した北京で、万里の長城で日の出を見るという現地旅行を会議参加者と約束したものの実現が難しく途方に暮れます。ところが偶然出会った中国人学生に大学入試の推薦状を書いてあげることで、引き換えに現地旅行の手配をしてもらったというのです(172-3ページ)。このように、自分の名声のためには、手段を選ばない「なんでもあり」の職権濫用さえ許されてしまうことには、思わずつっこみたくなります。

著者は、多くの有名起業家たちのエピソードから、人生訓を引き出していますが、残念ながらどれも彼らの人生を表面的になぞっているだけで、心に響いてはきませんでした。なぜ今こんな本が日本で売れているのでしょうか。みんな、本書でたびたび引用されているスピーチの主であるスティーブ・ジョブズのような米国流成功者になりたいのかもしれませんね。確かにジョブズは、「常識外れ」でした。本書では触れられていませんが、彼は電話のただがけ装置「ブルーボックス」を売り歩いていたほどクレイジーでした。人間にはいろいろな面があります。しかし本書では、人生の失敗経験さえも成功への道の一つとして語られます。米国の成功者は、どんなエピソードさえも、最終的に自身の成功物語に組み込んでしまうしたたかさを身につけなければならないようです。

一方、都築響一は、商業ライターのトップランナーとはいえません。彼は、雑誌が描きつづける虚構にうんざりしたことを告白しています。雑誌が伝えるような、北欧家具に憧れ、高級外資系ホテルに泊まるようなライフスタイルを、誰もが一様にえらんでいるわけではありません。日常に溢れる生活レベルの文化をすっかり無視して、消費を生み出そうとする虚構だけを繰りだしているメディアの片棒を、彼は担ぎたくなかったのでしょう。それよりも、日本人の日常生活に充満している文化を、カラオケスナックやラブホテルの姿などを通じて伝えていくことに転向したのです。

私たち読者や観客は、都築響一が伝える「常識外れの人びと」を、ひとつの「見世物」として楽しんでいます。常人では達成しえない技への驚きやとまどい、おそれを楽しむという態度は、制度確立以前のアートへ回帰しているようでもあります。「常識外れの人びと」の多くは、有名起業家と違って、生産的ではないし社会的な成功とは無縁です。しかし都築響一は、彼らを奇人変人として軽蔑したり、ネタとして消費しようとするのではなく、私たちと生活文化を共有しているひとつながりの人間として、やさしさに満ちた眼差しを注いでいます。都築響一の視線にうながされて、私たちも「常識外れの人びと」に不思議な共感や親しみを感じてしまいます。ところで、ここで紹介した本を書いたスタンフォードの先生は、都築響一が伝える「常識外れの人びと」を見て、賞賛するでしょうか。おそらく、一瞥するなり、こう叫ぶのではないでしょうか。「クレイジーだ!(成功してないじゃん!)」。

私なら、20歳の人にこうおすすめします。「常識外れ」は大賛成。でも雑誌や自己啓発本に描かれる「常識外れ」は、ある「型」にはまっているおそれがあります。だからどうか、その内容を鵜呑みにしないでほしい。……ちょと天の邪鬼すぎるかしら。

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チャートイットでみんなの意見をシェアしよう!

2010年5月20日に、組織のなかの学びに関する公開研究会「Learning bar」で、宮原さんと開発している手書きカード集計システム「チャートイット(Chart It!)」を使っていただきました。

Learning bar @ Todai 2010
ケーススタディをとおして新たな人材開発戦略を「構想」する!
フリービット株式会社 酒井穣さんをお招きして
2010年5月20日(木曜日)午後6時30分 – 9時30分
東京大学 情報学環 福武ホール B2F  福武ラーニングシアター
http://www.nakahara-lab.net/blog/2010/04/520_learning_bar.html

チャートイットは、ある企業内のビジネスワークショップのために開発したのが、きっかけです。

会議やパネルディスカッションで、参加者の意見や質問を出してもらうことは大切ですが、活発な質疑応答をひきだすことは容易ではありません。「的外れな質問をしてしまうかもしれない」、「みんなの前で発言するほどでも」と逡巡しているうちに場がシーンとなったりします。それでも参加者ひとりひとりの頭のなかには、意外な着想や感想が秘められていることがあります。

チャートイットは、そうした参加者の頭のなかにある思いを、みんなで共有するためのツールです。質問紙をスキャンして、その場で即座に集計し、きれいなグラフを生成したり、手書きの文字を共有することができます。とくに手書きの部分には、少々的外れなことを書いても気にしない。チャートイットでは、全てをフラットに扱うので、どれもスキップせずに、とにかく全部めくって見てしまおうというスタンスです。ネットの世界では、ブログや Twitter で多種多様、玉石混淆のコメントが飛び交っています。こうした時代に、私たちは限られた時間のなかで「文字情報を高速に読み飛ばす能力」を身につけました。ポジティブな意見もネガティブな意見も、自分の関心にそって、注目したり、読み流すことができます。やってみるとわかりますが、短い時間でたくさんの意見を見るだけで、意外とざっくりと全体像がつかめます。(もちろん「斜め読み」の弊害もあります。じっくり「読み込む」こともとても大切です。)

今回の Learning bar で感じたことは、チャートイットには違う使い方もありそうだということです。じゅうぶん場が盛り上がっている大規模なイベントの場合は、より踏み込んだ質問と分析をすることができそうです。

会場は熱気にあふれていましたね。すてきな会場をつくりあげていただいたスタッフのみなさん。そして、開発中のツールを使っていただき、さまざまな質問にお答えいただいた酒井譲さんと中原先生に感謝します。大変貴重な機会をいただき、ありがとうございました。

チャートイットは、ムービーカードと同じく、デジタルの強みとアナログの温かみをあわせもったツールです。現在、Windows でも Mac OS でも動作するソフトウェアとして目下開発中です。ご興味のある方は、下記までお問い合わせください。
info [at] moviecards.org

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Learning bar で回答していただいた質問の集計結果です。

【Q1】あなたは経営会議に参加していますか?
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【Q2】あなたは経営会議向けの資料をつくっていますか?
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自由記述の回答欄は、手書き文字のイメージを次々に紹介していくことができます。

【Q3】ご意見・ご質問をお書きください
(こちらは、当日とりあげられた質問のひとつです)

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今回は使いませんでしたが、複数の選択肢を用意して、棒グラフとして表示することもできます。
(これは、2010年4月30日「マレビトスクール」で使ったときの画面です)
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関連リンク
Learning barがおわりました! 中原先生のブログ
チャートイット@ラーニングバー 宮原さんのブログ

展覧会と音

先日、文化庁メディア芸術祭に行きました。

第13回文化庁メディア芸術祭
2010年2月3日−14日
国立新美術館
http://plaza.bunka.go.jp/festival/

今年の会場構成は、わかりやすくなったとTwitterでは好評だったようですね。でも私は、例年以上にカオスな雰囲気があった気がします(あまり昨年までのことも覚えていないので適当な印象です)。そう感じた最大の原因は、「音」です。いろいろな作品の音がいくつも重なって耳に入って、頭が痛くなってしまい、会場を早々と退散してしまいました。じっくり観ることができなかったため、良い作品があっても、出会うことができなかったと思うと残念でした。

エンターテインメント部門大賞の「日々の音色」はYouTubeで観て感激しましたが、大きなスクリーン上映では、作品のおもしろさが半減していました。この作品の最も重要な点は、Webカメラの低解像度の質感やビデオチャットの雰囲気を、そのまま私たちが日々使っているWebブラウザで伝えていることです。つまり「日々の音色」は、インターネットのソーシャルメディアならではの「メディア性」を、制作と発表の双方において、うまくいかしているのです。だからからこそ、オンラインの動画共有サイトで発表されたことに意味があります。

同じように、テレビコマーシャルをスクリーンで上映されたり、Webサイトを会場にしつらえたPCで見せられても、しらけてしまいます。作品と、その発表の文脈は密接に関連しているため、作品を美術館に「移設」した時点で、作品の魅力の何割かは失われてしまいます。そこで、「メディア芸術」を美術館で展示するには、オリジナルとは別の見せ方の工夫が求められるのではないでしょうか。アニメーション部門は、キャラクター設定図や絵コンテなどの展示が慣例化しているようです。他の部門でも、単に完成品を展示するだけでなく、創作過程がわかる素材の展示があるといいですよね。たとえば「日々の音色」の制作ドキュメントが展示されていたら、ネットではなく美術館まで足を運ぶ意味がでてきます。

さて、展覧会と音の関係を感じさせてくれた展覧会として、 国立近代美術館のウィリアム・ケントリッジ展を紹介します。

ウィリアム・ケントリッジ 歩きながら歴史を考える そしてドローイングは動き始めた……
2010年1月2日(土)~2月14日(日)
東京国立近代美術館
http://www.momat.go.jp/Honkan/william_kentridge/

ウィリアム・ケントリッジは、南アフリカ在住の美術家で、ドローイングを描き直してコマ撮りする独特なアニメーションをつくっています。この展覧会では、ドローイングを展示する明るい部屋と、映像を上映する暗い部屋が交互にあらわれる展示構成になっていました。

連作《プロジェクションのための9つのドローイング》の上映は、5作品がひとつの部屋で上映されていました。観客は、手渡されたワイヤレスヘッドホンの受信チャンネルを切り替えながら観賞することができました。実は、ここで私は、チャンネル番号が暗くて確認できず、ほかの作品の音とともに、ある作品を観てしまいました。面白いことに、それでも違和感なく作品を観ることができてしまいました。後で気がついて、あらためて「正しい音」で観ましたが、「正しい音」はビジュアルと直接的に関わりすぎていて退屈だなあと、ひねくれた感じ方をしてしまいました。

ワイヤレスヘッドホンを使った観賞は、隣り合う作品の音の干渉をさけるスマートな解決方法です。一方、そのほかの作品上映はスピーカーを使っていました。スピーカーを使った上映作品の音は、周囲の明るい展示室にも響いていました。しかし、その音は不快な感じはせず、次にどんな作品が待っているのかと想像をふくらませるのにちょうど良い予告編の役割をはたしていました。全体的にみて、ウィリアム・ケントリッジ展は、限られた展示空間のなかで、展示と音をうまく組み合わせた展示構成でした。

ウィリアム・ケントリッジ展は、2009年秋に展示された京都国立近代美術館ですでに話題になっていました。そして、2010年の春には、広島市現代美術館に巡回します。 京都の展示は見ることができなかったのですが、次の巡回展で、どのように展示されるのか見てみたいものです。

クロアチアのデバイスアート

2009年10月、クロアチアの首都ザグレブで開催されたデバイスアート展「device_art 3.009」に参加しました。

クロアチアで日本のメディアアートに焦点をあてた展覧会が開催。明和電機ライブや、メディア芸術祭上映会も。(10/20-27)
http://media-arts.cocolog-nifty.com/map2009/2009/10/1020-27-b638.html

device_art 3.009
http://www.kontejner.org/device-art-3009-english

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さいきんは展覧会やイベントの内容よりも、その運営がどのように行われているのかに関心を持っています。

このイベントには、日本人作家が多数招待されていたので、きっと大きな公的組織の事業かとおもっていました。ところが実際には、この展覧会は、KONTEJNER(コンテナー)というインディペンデント組織が主催したものでした。KONTEJNERでは、若い女性のキュレーターが中心にエネルギッシュに活動しています。 彼女たちは、自分たちの足で作品をリサーチして、 目星をつけた日本のアーティストに連絡し、企画し、スポンサーをあつめて実行しています。 想像するだけでも大変なことなのですが、彼女たちは、ちゃんと実現しているんですよね。この実行力にはほんとうに感心してしまいました。 この様子を見ていると、「あなたにも、やれないことはないんだよ」という言葉を、私たちにつきつけられている感じがしました。

デバイスアートは、KONTEJNERが3年おきに開催しているイベントです。日本でも「デバイスアート」という名前で活動している研究グループが存在しますが、クロアチアでの文脈とはかなり違うようです。今回、日本の作品が特集されたのは、両者の違いを焦点にしたかったのでしょう。たしかに、展覧会で見たクロアチア人作家の作品は、日本のものとはずいぶん趣きがちがいました。このあたりの話は、私たちが帰国した後におこなわれたトークイベントで行われたのだと思います。ぜひキュレーターや作家の方とお話したかったのですが、時間がありませんでした。

ザグレブでの滞在中は、いろいろな意味でホスピタリティにあふれていました。スタッフの身の丈でできることを、きちんとやるという姿勢にとても感心しました。渡航前は、事前の情報がすくなくてちょっと不安だったのですが、滞在中は毎日のようにボランティアの方々がアテンドしてくれたのには感激しました。会場の設営をおこなうテクニシャンたちも、てきぱきと仕事をこなしてくれて助かりました。日本とのコーディネーターをつとめていただいたアーティストの森田智嗣さんにはお世話になりました。また、カタログに解説を寄せていただいたIAMAS名誉学長の坂根厳夫先生にも感謝します。

さて、ザグレブには、たくさんのミュージアムがありました。小さな街なので、気軽に訪ねることができます。いくつかのミュージアムを紹介します。

近代美術館(Modern Museum)では、クロアチアの作家の近現代美術作品を見ることができました。教科書で見るようなヨーロッパ絵画とはちがう、今までみたことのないタイプの作品が多くて興味深かったです。

技術博物館は、乗り物や農機具、電気、宇宙など、さまざまな技術の展示が並んでいました。小学生のグループがたくさん見学に来ていました。みんなデジカメやケータイで写真を撮っています。ひとりでぶらぶら見ていると、博物館のスタッフに声をかけられました。地下に炭坑があって、ちょうど炭坑展示に向かっていた小学生のグループについていけば一緒に見に行けるよ、ということでした。すかさず集団のなかに入りこんで、リアルに再現された地下の炭坑展示を見て回ることができました。小学生たちには、不審な外国人がいるという目でジロジロ見られましたけど。ここは、炭坑やプラネタリウムなど、個人では見られない展示があるので、どうしても見たいものがあれば問い合わせるほうがいいかもしれません。

点字博物館というユニークなミュージアムもあります。 とてもよかったという評判を聞いて、私も行こうと思ったのですが、住所をひかえずに行こうとして迷ってしまいました。たどりついたときには、帰国日の待ち合わせ時刻がせまっていて、残念ながら中を見ることができませんでした。

あとで気がついたのですが、ミュージアムの入口に「来館者ノート」が設置されていたところが多かったんですよね。みんな、たわいもないことを書いているんですが、このような素朴なツールが大きなミュージアムに設置されているところが、クロアチアらしいなと感じました。

はじめて行ったクロアチアですが、人びとが親切で、料理もおいしく、ぜひまた行きたい場所になりました。

新聞をつくってみる

2009年前期、名古屋学芸大学の映像メディア学科の授業「メディア・リテラシー演習」を担当しました。100名を超える学生たちに、どんな授業をデザインすればいいのか、毎回模索しながら進めた実験的な授業でした。

この授業では、各グループに毎回の授業内容を伝える一面新聞をつくってもらいました。授業全体で、12グループの7回分になり、実に84面もの多彩な紙面がうまれました。読みごたえ、見ごたえ十分なものばかりです。その成果はこちらです。一覧すると、その情報量に圧倒されます。

2009MLAll.png

毎回、とてもタイトなスケジュールで、この課題をこなすだけでも大変だったとおもいます。ところが、実際にはもっとたくさんの課題に取り組んでもらいました。「課題が多すぎる」といった苦情や批判も、この紙面にはたくさん載りましたね。受講生のみなさんは、本当におつかれさまでした。

最終回の新聞は、残念ながら受講生に配布する機会がありませんでしたが、授業全体の感想が多数掲載されていました。そのなかで、この新聞課題自体についての感想が書かれている部分を紹介します。

200MLColumn.png

多くの学生が悩んだのが「新聞制作」の課題。今日の授業内容や、授業解説することが主で、毎回課せられていた。最初のときは、みんな正統派。どの新聞もしっかりと文を埋め、内容の濃さを重視していた。だんだんと正統派の新聞に飽きてきた中盤に「新聞じゃなくてもいい」と指示を受けた。課題作品は大きく変わった。週刊誌のように写真を大きく載せ、いままで小さかった文字は大きく載っている。先生の写真を使ったり、漫画にしたり、人の目線を注目させた。正統派の新聞は影を薄くしていった。学生による投票は質よりも、インパクト重視となり、制作者もそれに伴ってレイアウトに力を入れた。この光景、私は何処かで見たことがある。それは「今のメディア」にそっくりなことだ。人々の注目を集めるために過激な言葉を使ったり、先生の批判をしたり、すべて今のメディアに似ている。「これでは私たちの新聞制作は、こうなりたくないと思っている今のメディアがしていることと同じ。」そのことに気づき、私たちは初心にかえった。情報を伝えることが仕事の新聞に、華美なものはいらない。情報は常にシンプルでいなくていけない。大事なことに気づかされた瞬間、私は「先生にやられたなぁ」と苦笑いをした。

成績評価は、出席点と、全員による最終課題の相互評価点を合算したものにしました。相互評価点だけで、かなり妥当な点数が出てきましたので、とくに得点調整は行っていません。個人個人の評価を見ると、さまざまな意見がでて評価がわかれていましたが、平均すると納得できる結果が返ってくるのは不思議でした。