工藤強勝さんのこと

グラフィックデザイナーの工藤強勝さんは、わたしにとっては雲の上の存在だ。数々の装幀された本やデザイン雑誌を通じて、その名前は私の頭に刻まれていた。

2015年の夏、北海道で工藤強勝さんにお会いする機会にめぐまれた。均整のとれたタイポグラフィの印象から、ストイックで気難しい方だろうと緊張した。ところが、お話すると、まったく気さくで陽気な人だった。もちろん仕事に対しては厳しいだろうが、オフのときまで同じとはかぎらない。わずかな時間で、そのギャップとお人柄にすっかり魅了された。

当時すでに退職されていた首都大学東京のことをうかがった。それから、工藤強勝さんのご子息と、大学院のゼミで一緒だったことがわかり、ふたりとも驚いた。2019年の秋に、わたしが首都大学東京に異動することになるとは、その頃にはまったく予想もしていなかった。

またお会いしたい方でした。ご冥福をおいのりします。合掌。(400字・17分)

対等な対話

「暮しの手帖」で、アナウンサーの山根基世さんがこんなことを言っていた。

組織(NHK)を変えようとしてうまくいかなかった。トップの沽券を傷つけてはいけないということを学んだ。それで今は、「子どもの話し言葉」を教えている。

それで、大学1年生の授業で、作品制作のアドバイスをして回っていたことを思い出した。ある女子学生が、「わたしはそうは思いません」とぴしゃりと反論してきた。あまりのストレートな反応に、こちらはひるんでしまった。いや、アドバイスを拒否されたくらいで驚くのはおかしくて、そういう率直な物言いこそ大事にしなければいけない。そう思いなおして、私のアドバイスは撤回し、彼女の想いを尊重することにした。

ふだん私たちは、教師など上の立場の人に言われたことに、表立って反旗を翻したりはしない。波風立てることを嫌って、受け入れる。納得いかなくても、せいぜい影で不満を漏らすだけだ。そういう儒教的な関係に慣れていると、対等な関係で対話をすることは難しい。

だから、さあ今から対話しましょう、と言われてもできない。多様な相手と対等な対話できるようになるには、若いころからそういう経験を積んでおくことが大切なのだろう。あの学生もきっと、素直に自分の思いを相手にぶつけることができる環境で育ってきたに違いない。

対等な対話ができる人が増えたら、旧態依然とした社会や組織は変わっていくだろう。いや、組織に変わる気がなければ、そういう若い人は押さえつけられてしまうだけかもしれない。だとしたら、彼ら・彼女らは、そんな組織を離れてしまうだろう。だから、古い組織と新しい組織が併存していて軋轢が生まれている。対等な関係、対等な対話を大切にする価値観の人たちが、新しい組織を選択すれば、おのずと古い組織は縮小せざるをえないだろう。

(752字・15分)

勉強術の本を読んで悲しくなった

ある勉強術にかんする本をよんだ。ふだん手にするたぐいの本ではないけれど、なぜかすすめられたので。

かんじんの勉強術に関する記述は数ページほどしかなく、ほとんどは筆者の半生をふりかえった自伝だった。

著者は、模試全国トップ、筑波大付属高校、東京大学法学部首席卒業、在学中に司法試験合格など輝かしい成績をほこる。塾に行かずに独習でたどりついたという。ま、こういう成功者の本はなんの参考にもならないけど、と読んでいたら、参考にならないどころか、ひどく悲しくなった。

著者は、じぶんは天才ではなく努力してきたのだ、勉強は楽しくないのだという。勉強をつづける理由は、周囲から「勉強ができる子」と呼ばれたイメージを壊したくない、一人だけ不合格になりたくない、などなど。試験に落ちてしまう恐怖、友達と遊んで時間を無駄にしたとふりかえる罪悪感を味わいたくないために、がむしゃらに勉強する。

不安にかられて勉強するという経験は確かに誰でもあるだろう。でも、それだけで一冊の本にしてしまう厚顔さにあきれてしまった。恐怖と罪悪感という、ネガティブな力によって駆動される勉強って悲しくないだろうか。そんなに必死に勉強して、何になりたいのだろう。

著者の生き方は、学歴や資格を得ることだけが目的になっているようだ。仕事をはじめて、他者との共同作業の大変さを嘆き、答えのない課題の取り組みに戸惑うさまを吐露している。そうした社会の「現実」に気がつくのがあまりにおそくないだろうか。

高偏差値のエリートって実はこういう人が多いのだとしたら、この先が不安になった。あたえられた課題で高得点を稼ぐ能力がきわめて高かったとしても、社会をよくするための活動にそれほど関心がなさそうだから。

どうして私はこの本をよんでこんなに悲しくなったのだろう。エリートへのひがみじゃない。ものごとをはかる物差しのバリエーションが少ないことへの憤りなのかもしれない。

2020年さいごの買い物

家族で共有しているスマホアプリの買い物リストに「卵カッター」とある。はて、お正月料理に必要なものかと思って買ってきた。

すると家人から「大晦日に卵カッター買ってきた? そんなの使うわけないでしょ」と一蹴された。

どうやら「たまご」の音声入力を誤認識したアレクサのしわざのようだ。こいつはたまにとんでもない買い物を要求する。2020年最後の日にやられてしまった。

劇作家の悲鳴

新型コロナウイルス感染症の影響で劇場が閉まり公演が中止になった。この事態を受けた劇作家たちの発言が物議をかもしている。非難したい人びとが失言に乗じて火をつけるので、炎上しているように見える。

小さな劇団は零細産業であり悲鳴をあげるのは当然だ。しかし他業種と比較をしながら窮状を訴えたことで反発をくらった。「小演劇はスポーツイベントとは規模が違う」、「製造業のように増産できない」。比較された側も大きな被害を受けているので、このような言い回しは妥当ではなかった。

ただ彼ら自身がふだんから社会的に不遇な立場に置かれているとかんがえているからこそ、そうした言動にむすびついてしまったのではないか(人文系研究者の怨嗟の声に似たものを感じる)。ただ、彼らの言い方に不適当だった部分はあったからといって、悲鳴をあげること自体を封じようとしたり、人格を批判しようとする動きは許されない。

ある劇作家が過去に政策に介入したことを批判した記事をよんだ。みずからの業界に利益を誘導するロビー活動はどの業界でもあるはずだ。「お肉券」の構図とそう変わりはない。もし舞台芸術だけに手厚い支援が実現していたとしても、劇作家ひとりの問題ではなく、バランスのとれた政策に落とし込めなかった政治家の責任だ。

ところで、ロビー活動の面のバランスはどうなのだろう。芸術家のロビー活動が演劇に偏っているかどうかはよく知らない。政治にアクセスする芸術関係者が幅広い分野にまたがったほうがよいのは確かだ。そういえば文化庁長官は工芸家だが……。

(646字・30分)