2009年前期、名古屋学芸大学の映像メディア学科の授業「メディア・リテラシー演習」を担当しました。100名を超える学生たちに、どんな授業をデザインすればいいのか、毎回模索しながら進めた実験的な授業でした。
この授業では、各グループに毎回の授業内容を伝える一面新聞をつくってもらいました。授業全体で、12グループの7回分になり、実に84面もの多彩な紙面がうまれました。読みごたえ、見ごたえ十分なものばかりです。その成果はこちらです。一覧すると、その情報量に圧倒されます。
毎回、とてもタイトなスケジュールで、この課題をこなすだけでも大変だったとおもいます。ところが、実際にはもっとたくさんの課題に取り組んでもらいました。「課題が多すぎる」といった苦情や批判も、この紙面にはたくさん載りましたね。受講生のみなさんは、本当におつかれさまでした。
最終回の新聞は、残念ながら受講生に配布する機会がありませんでしたが、授業全体の感想が多数掲載されていました。そのなかで、この新聞課題自体についての感想が書かれている部分を紹介します。
多くの学生が悩んだのが「新聞制作」の課題。今日の授業内容や、授業解説することが主で、毎回課せられていた。最初のときは、みんな正統派。どの新聞もしっかりと文を埋め、内容の濃さを重視していた。だんだんと正統派の新聞に飽きてきた中盤に「新聞じゃなくてもいい」と指示を受けた。課題作品は大きく変わった。週刊誌のように写真を大きく載せ、いままで小さかった文字は大きく載っている。先生の写真を使ったり、漫画にしたり、人の目線を注目させた。正統派の新聞は影を薄くしていった。学生による投票は質よりも、インパクト重視となり、制作者もそれに伴ってレイアウトに力を入れた。この光景、私は何処かで見たことがある。それは「今のメディア」にそっくりなことだ。人々の注目を集めるために過激な言葉を使ったり、先生の批判をしたり、すべて今のメディアに似ている。「これでは私たちの新聞制作は、こうなりたくないと思っている今のメディアがしていることと同じ。」そのことに気づき、私たちは初心にかえった。情報を伝えることが仕事の新聞に、華美なものはいらない。情報は常にシンプルでいなくていけない。大事なことに気づかされた瞬間、私は「先生にやられたなぁ」と苦笑いをした。
成績評価は、出席点と、全員による最終課題の相互評価点を合算したものにしました。相互評価点だけで、かなり妥当な点数が出てきましたので、とくに得点調整は行っていません。個人個人の評価を見ると、さまざまな意見がでて評価がわかれていましたが、平均すると納得できる結果が返ってくるのは不思議でした。